共時性、というか準備された心の話

パスツールの有名な言葉に「チャンスは準備された心に降り立つ」ってのがあります。
私がこの言葉を知ったのは「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一著)を読んでなので、結構最近まで知りませんでした。

どんなことでも、準備された心(アンテナをはって受け入れる体制を整えておくこと)がなければ、チャンスもなにも素通りしてしまう・・・非常に当たり前のことをエレガントな言葉でまとめるあたり、さすが偉人は違うな、と思うわけですが、パスツールって日本人なんでしょうかね。

つまらない話はともかく、もっとつまらない話として、最近の私の周り話。

なんか、このごろ、いたるところで「アーキテクチャ」「環境管理型社会」という言葉を耳にするようになりました。

これは間違いなくあの先の「アーバンコンピューティングシンポジウム」で耳にしてきたからなんですけど、まぁ、こうも見事にあちこちにはびこっているとは思いませんでしたよ、アーキテクチャなんてもんが。

あんまり言うと電波のお告げのように聞こえるので自重しますが、同じ道を歩いていても急にその文字が目につくようになりますね。なんか、自分ではまだまだ準備しきれてない分野なんで、まだ降り立たなくていいですよ、ええ。

環境管理型社会、はフーコーの解説本を読んだときからずーっとなので、結構長いです。もっとも、そこではパノプティコンとか監視者の不在とかしか書かれていなかったので、「かんきょうかんりがたしゃかい」という言葉を聞いて連想するに至るまでには時間がかかりましたが・・・。

でも、これもまた「自由という服従」(数土直紀著)なんかを読んだときから漠然とイメージしていた、監視社会に関する考えや、先の「生物と無生物のあいだ」をはじめとする生物学、そこから逆に想起したオートポイエーシスの本とか、これまで準備してきたものにつながっているのかなーと思うと、ちょっと感動しました。

間違いなく言えるのは、ここで挙げた本のどれも「全く理解していない、もしくは理解した気にもなっていない」ことで、準備の状態から脱しきれないままになっているってことだけですね。

「わからない。でも、いつかわかるんじゃないか。」そう思って本を読むわけですけど、その前に時代も変わるし、興味も変わるし、本も湿気にやられて捨てる羽目になるわけです。この歳になると、わからないままちゅうぶらりん(サスペンス!)で進むのが面白くなってきました。

曲解を肯定して生きる。なんて迷惑な・・・でも、そんなもんじゃないでしょうかね。